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元タクシー運転手から泥沼にハマった男のブログ

30代元タクシー運転手が農家になる途中

田んぼの中の『公楽園』にみる、現代人のオアシス論 

孤独と貧困

久しぶりにNHKのドキュメント72時間を生で観た。やっぱおもしろいなー。東京だけでなく地方のこういう場所を特集できるのは、やっぱり全国に取材網を持っているNHKならではだな、とつくづく感じる。月1,200円程度なら受信料払う価値ある。

 

今夜の特集は、新潟県燕市のとある・・・ゲームセンター兼宿泊施設?だ。タイトルは『田んぼの中のオアシスホテル』。燕市といやぁ、刃物が有名な?

 

さて、オアシスとは、広辞苑(新村出 編)によると

1、砂漠中で水がわき、樹木の繁茂している沃地。(略)

2、慰安となる場所。いこいの場。「都会のー」

 となっている。この場合は2のほうの比喩、とりわけ「慰安」としての表現であろう。

慰安の場所はすごく大事だ。僕は独身だが、同い年ぐらいの人は子供がいて、その子供は話せるぐらいに成長しているというパパママも多い。事実、土日に下手に繁華街(という表現がファスト風土である地方都市には当てはまらないが)を出歩くと、どこもかしこも家族連れである。

僕は周囲と自分を比較して小さく見積もる傾向があるため、肩身を狭くし、肩幅をせばめ、腕を「だっちゅーの」のように寄せ、ぴかぴかに磨かれた床を見ながらそそくさとダイソーから出ようとすると、自動ドアでないガラスの前で間違って立ち止まって開くのをしばし待ってしまう悲しい男である。その横で、楽しそうに買い物を楽しむ家族連れ、という構図が繰り広げられるので、あまり土日は商業施設に出向かなくなってしまった(そんなの気にしない男と思っていたのに、やはり周囲に流される人間なのだ)。

その人たちを見ていると、すごく「慰安」という言葉が当てはまる。都会の人間・はてな民にバカにされがちな、「休みの日は家族でイオンに行って帰りにチェーンの回転寿司を食べて帰る」というファスト風土的な生活は、傍からみると口を出したくなるのかもしれないが、実際にはそのハード(どの店とかどんな物を買うかとか)は関係なく、その場にある心のやりとりであると、孤独な男からすると感じる。「こら○○子、言うこと聞きなさい」というやりとりが、羨ましいものだ。

当人たちが不満を持っているにしろ、それを家族団らんの時間とし、「よっしゃよっしゃ」という認識を持てている、そんな気がする。そのことはそれをバカにできる人は、現状孤独でない人か、孤独だけどそんな自分を認めたくない現状である人といえるだろう。

 

新潟のオアシスホテルの話に戻るが、番組を観ていてホッとした。してしまった。心の影を浮き彫りにされ、取材された出演者には申し訳ないけど、「そうですよね、誰しも心に影をつくって生きてますよね」という共感を得ながら番組を観た。客のほとんどが男性の中、珍しく女性が(カップルでだが)入ってきて、それを見つめる別の男性に対して取材していた。「どうしたら女性と近づけるか悩んでいる」と。リアルである。分かる。それは痛いほど分かるぞ同士よ。とテレビの前から腹から声を出した。腹の中で。

全く、タクシー的な、道路の側溝蓋の上をガタガタ走る的な人生である。(タクシーで側溝蓋の上を走るという意味ではない)。実はガタガタ言わせているのに、みなアスファルトで舗装された道をスーッと快適に走っているように見せながら、見栄を張りながら生きている。

何となく今の世間では、そういう側溝の蓋の上を走るような人生は認めざるべきという風潮がまだある気がする。東京ではそういう人は別の文化やコミュニティを作って生きていけるかもしれないが、こちら(特に農村地帯)でそういう人は、相当に辛い思いをしているだろう。住宅地ですら、昼間に与太話をしている主婦の横通りすぎると、サイドミラーを見るとこちらに視線が向いている、ということが多々あるし・・・。あるとき知り合ったおばちゃんから、そこの娘さん(アラサーかアラフォー)が抗うつ剤を飲んで暮らしているという話を、また別の人から「あそこの娘さん実は・・・」とヒソヒソ話で聞かされたときには、「ああ、田舎ではまだそういう人にはそういう態度なんだ」などと妙に達観ぶってしまったことを覚えている。

なんだか話がズレそれまくったが、要するにオアシスは必要である。家庭がオアシスにならない人は、大都会でもドンキホーテでもオアシスを求めるとよいのだ。

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