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元タクシー運転手から泥沼にハマった男のブログ

30代元タクシー運転手が農家になる途中

自分の人生の当事者、あるいは主体性について

精神・自己受容

tamesue.jp

 

為末氏の言葉はこれまでも折に触れて読んでいる。内観の方法を分かりやすく教えてくれる先生と思っている。

このリンク先の記事ではどうしてもオリンピックのことがチラつく。新国立競技場のゴタゴタがこじれたのは誰のせいか。「私のせいじゃない」という人ばかりで責任の所在が分からなかった問題。

またブコメを見ると、会社や組織の中での当事者意識についての話が多いようだ。

 

今回の僕の捉え方としては、「自分の人生の当事者」という意味で感じたことを書こうと思う。

自分の人生に当事者意識がないと辛い?

僕は以前から、「自分の人生に責任感がない」と感じている。そんなことはある時点まで感じたことがなかったのだが、「この生きづらさはこれが原因なのでは」と思うようになった。責任感とは、当事者意識主体性と言い換えてもいいかも知れない。分からない人には「何言ってんだコイツ?」ということかも知れないけど。

有名な自己啓発本の『7つの習慣』の中の1つ目の習慣がこの「主体性をもつこと」で、それが基本・土台となるという話だった。僕はそこで出鼻をくじかれた。それこそが僕に足りないことだと思っていることだったから。

まぁ、どの自己啓発本も同じようなことを書いているような気がするものだ。どの本も読んだだけで満足して実際の行動はなかなか変わらない、という人は、この主体性がないことが原因だと思う。そもそも自己啓発本を読むことが主体性がないとも言えるのだけど(笑)。

だから主体性を持って生きている人にはそれを嘲笑われる。さらに、一見そういう本を読むことが主体性があるようにも見えるのがややこしい。

 

さて、自分に翻ってどうか。

 

先日、今やっている林業関係のアルバイトで初めて高い木に上った。あるお宅の庭にある15メートル程度のスギの木の段切り伐採の依頼だったのだが、比較的容易な現場だったので、僕にも上らせてみようということになったようだ。幹と自分の体を、安全帯というロープのベルトで結び、作業するときには後ろに倒れて体をロープに預ける。そして上っていって、上から切り落としてくのだ。一応安全なようになっているし、これまでも他の先輩がやるのを見ていたのだが、初めてやるとあってはやはり高いし怖い。登り始めると、足が震えて、かけたハシゴががたがた鳴った。それでもしょうがないので上まで上って、「ええい、ままよ」と安全帯に体を預けると、意外に安全だった。

これだけ聞くと「勇気がある」と思えるかも知れない。先輩にも「初めてにしてはまあまあできたほう」と言われた。

しかし僕の意識の中では、やはり当事者意識が欠けていた。「ええいままよ」という中身は、「もし落ちたら、ちゃんと指導してない指導者側が悪いし」「安全帯メーカーのせいにしてやる」という責任回避ばかり。自分の命が関わっていることなのに。主体性がある人なら「絶対成功させてやる」とか「死ぬもんか」というような心の底からの気持ちが湧いてくるような気がする。

結局後から考えれば、先輩の言うとおりそこまで危険な作業ではなかったということになるかも知れないのだが。

 

これは最近あった事例だから書いたが、僕は人生全般にそういう当事者意識が薄い気がしている。確かに僕は昔から、折々の重要な決定を他人に依存していた面があると思う。周囲からはそう見えなくても、自分の心の奥底を内観すれば、やはり「自己」というものが決定してなかった。

簡単な言葉にするとしたら、「」とか「希望」と言い換えてもいいかも知れない。しかも他人目線のものではなく、自分の心が踊る、ワクワクすること。そういうことに鈍感になって(ならざるを得なくなって)、それに従わなくなった結果、他人や世間に従うようになっているというのが実情ではないかと思う。自分の人生を振り返ると。

 

「心の中のリトル・ホンダ」を自分にも

そうなった原因は、一般的な話だと過去の生育環境によるものだと言われているようだ。分かりやすいもので言えば、昔から言われたことだけをやって顔色伺いをする子供だった、親の抑圧が強かった、など。

原因としてはそれはあるかも知れないが、それの「せい」にすると、未だに当事者意識や主体性の育成を放棄していることと全く同義になってしまう。肝心なのはこれからどうするかだ。

僕が新卒で最初にした仕事は小さな会社の営業だった。大学4年のときに「特に資格もスキルも無い文系学生は営業をするものだ」というような先入観とか刷り込みがあったと思う。今思えばそれも主体性がないからで、周囲に依存していた。それで入った営業の仕事は全く僕の性に合っていなかった。どちらかというと黙々と作業をするほうが好きだった。変に喋るキャラづくりをしていたことも災いした。結果その仕事はすぐ辞めてしまい、会社にも迷惑をかけてしまった。

前のタクシーや今の農業という仕事は、自分で選んだと思っている。心の声を聞いた結果だと思っている。サッカーの本田選手がACミラン入りの会見のときに言った「心の中のリトル・ホンダに聞いた」という言葉があったが、あれがまさに主体性のある決断ということだと思う。

僕はそこまでの確信は無かったが、少しずつ周囲の意見を遠ざけているという面はあるかもしれない。読んでくれている人の中で、あまりにすぐ影響される性格の人は、それをおすすめする。僕が22歳のとき、地元の田舎から離れて東京に行ったのはそれができる(しやすい)というのが大きかったなと、今になって感じるようになった。

 

***

 

もちろん、他人や世の中の要請どおりに生きたとしても、結果論で頑張れば何事も成し遂げられるという考え方もあるし、それはそれで充実感がある。それでも主体性がない人生は、僕には辛くなってしまった。今現在も主体性があると、自信を持っては言えない。だから自分のことも好きになれていないし、人のことも本心で好きになれないし。

ただ、目標が今はある。それが支えになって、今の昼夜の仕事を続けられている気がする。そしてあまりそれが苦痛になっていない。だから最初の営業の仕事ほどの「これ間違えたな感」はない。

その目標がとりあえず達成されたとき、それは世間一般的にはスタートなのだが、自分の中でどういうモチベーションになるか。自分がした決断は主体性があったと思えるようになっているか。それが今の少しの不安ではある。(終)

 

 

 

 

 

当時、全オレが衝撃を受けた為末さんツイッター↓

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