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元タクシー運転手から泥沼にハマった男のブログ

30代元タクシー運転手が農家になる途中

きれいな「里山物語」は無い と、僕は思う。

農業 都会と地方

www.nhk.or.jp

 

ある日、車でNHKのラジオを聴いていたら、高校講座で現代文の講義をしていた。いつもならすぐチャンネルを変えるのだが、「里山」という言葉が聞こえたので少し聞き入った。

 

里山物語(PDF) - NHK高校講座 国語総合

 

おっと、調べるともう1ヶ月以上も前の放送だった。この1ヶ月は個人的に人生で一番働いた時間が多い月だったと思う。(収入額は別にして・・・)

 

さて、その授業で取り上げた文章は、日高敏隆さんという人の『里山物語』という文章だった。僕自身こちらで働き始めてから、「自然」というものとここまで密接に関わった経験が少なくとも大人になってからは初めてだった。それでこの文章を聞いて、その通りだと思う!と拍手を送りたい言葉がいっぱいあったのでいくつか引用したい。

つい何日か前、テレビで里山の番組を見た。人が自然とともに生きている琵琶湖西岸の美しい映像であった。僕は自然の中に吸い込まれていくような気持ちでじっと見入っていた 。そのうちに僕はふと気づいた。自然の中に吸い込まれるというこの表現は、里山については適切なものではないのではないかということに。なぜならいつも言われているとおり、「里山」は決して「自然」ではないからである 。もともとの自然の中に人間が入っていき、木を切ったり、草を刈ったり、いろいろなはたらきかけをしていることによって生まれたもの、それが里山である。

(中略)

里山は決して自然そのものではない。それは自然と人間のせめぎあいの産物なのである。もしこのことを忘れると、人間は徹底した自然と徹底した人工とを求めることになりはしないだろうか? それは何か非現実的で不自然なことになってしまうような気がしてくる。

地球上で徹底した自然というのは、地震とか噴火とか暴風、大雨などのように、人間にとって恐ろしいものであることが多い。人間はそれを求めてはいないし、美しいものとも思っていない。

一方、人間は人工物を徹底的に発達させ、その利便さを享受している。それはそれでよいのだし、それが人間の偉大さでもあるのだが、人々はそこに一抹の不安をも感じている。その反動が自然礼賛の気持ちの源であることも否めない。どうやら人間は、何か両極端の間をさまよっているのではないだろうか。

そんなふうに思ってみると、里山というのは意味深いものである。

 

長々と引用してしまったが、僕はずっと「里山」が美しいものとして描かれるのがどうも違和感があった。それは東京人ではなく田舎人になりつつあることの証拠だとも言えると思うが、やはり「きれいな里山」は東京的な、観光客的な視点でしかない。実際生活していると人間も動物も植物も、おのおの生存競争に邁進しているだけである。もちろん人間が優位なのは言えるだろうけど、それが基本である。

とはいえ、里山をきれいなものとすること以外に、どこか畏れ(おそれ)というか、自然物全体として人間より上位に置くような意識は人間の中にあると思う。これは日本人だけではないと思うけど・・・。それが何なのかなぁとずっと思っていたが、引用の文中で太字にした

人々はそこに一抹の不安をも感じている。その反動が自然礼賛の気持ちの源であることも否めない。

 という部分が「ああ、そうだったの!?」と思ったのだ。都会的な便利な生活に不安に感じてるのか?と。まぁこの筆者の考えであることは前提だけど、「否めない」というある種断定的な言い方をしていたのでちょっと納得させられてしまった。

 

東京の「全自動感」、田舎の「手動感」

都会と田舎とどっちがいいか、という論争のようなものは今の日本では活発になるのもいたしかたないとは思う。東京集中と過疎化と少子高齢化が同時に急激に進んでいるのがこの国だから・・・。僕にとってはどちらもいいもんだ。ただ、東京に戻りたいかというと、東京は「全自動」な感じだったなぁという印象を今になって受ける。いや、ちゃんと毎日を必死に生きていたんだけれど、なんというか、こなしていた?こなさされていた?なのに危うい。

田舎はどうか?何かにつけ手動。自分でやることが増えた気がする。色んなサービスも東京のほうが商売としていっぱいあるだろう。こっちは不便だ。でもなんだ、木を切ったり竹を切ったり、柿をもぎって食べたりしてるとなんか生きてるような「感触」がある。ドアを手で押してるような。

 

最後にさっきの文からまた引用。

 

人間は雨露をしのぎ、できるだけ快適に暮らすために、自然の一部を破壊して家を建て、町を作る。家や町の中に自然が入り込んできてほしくない。(中略)道も交通も管理する。子どもの遊び場まできちんとしつらえ、人工の遊具を設置する。(中略)けれど絶えず報道されるとおり、そこにはさまざまな、そして予見しがたい危険が絶えないのだ。

人間と自然のせめぎ合いの結果として生まれた里山は、これとはかなり異なっている。

危険はないことはない。早い話がうっかりすれば蚊や時には蜂に刺される。子どもが木に登って遊んでいれば、落ちることもあろう。けれどその危険の多くは、人工的遊具の場合と違って予見できる。

 

うーむ。文章の矛盾を突っつこうとすればできるのかも知れないが、だけど実感としてなんかそういうのあるよなぁ。なんなんだろうか。まだ言葉にはできない。筆者は「自然とのせめぎ合い」という言葉を使って説明している。なんか僕にとってそれは楽しい面は、ある。

 

・・・でももしかして、違いって満員電車移動かゆうゆう車移動かだけの違いだったりしてな。ハハハ。